仏壇のセール

 近所の仏壇店がセールをしていた。仏壇のセール、という言葉の響きがどうにもおかしく感じられて、僕は信号待ちの間道路沿いのショーケースを眺めた。仏壇に値段がついて、それがさらに割引されている。しかし仏壇の価値ってなんだ? それは果てしない問いのように思われた。例えば命の価値とか正義の価値とか、そういった類いのものだ。それでもペットショップでは犬や猫に値札が貼られ、NPONGOも毎年の収支を計算してどこかに報告する。その矛盾について人々はどのように考えているのだろうか。つい信号待ちをしている人に尋ねたくなったけれど、変な人だと思われるのは心地よくないのでやめた。

 大学の友人で、葬儀のアルバイトをしていた人がいた。「赤の他人の葬儀中にはいったい何を考えているのか」という素朴な疑問をぶつけたところ、「いろいろ雑多なことを考えるけど……昨日はレポートの問題を考えていた」という答えが返ってきた。その日はたしかレポートの提出日だった。それで僕は彼のことを好きになった。

 こうやって説明してみると、どうやら僕のほうがおかしいようにも感じられるが、とにかく僕はその瞬間、彼のことを好きになった。そして(おそらく)僕たちは友だちになった。

 大学を卒業するとき、僕が友人と呼べる人は彼たった一人になっていた。

 しばらく後に、祖母の葬式と母の葬式が立て続けにあった。不幸がどうとか厄がどうとかスピリチュアルなことも言われたけれど、三秒に一人の人間が死んでいると思えば妥当なことだった。宝くじの当選者は必ず存在する。

 どちらの葬式でも僕は彼のことを思い出した。そのせいで僕は葬儀屋の人や火葬場の人が何を考えているのか気になって仕方がなかった。僕は泣かなかった。寂しくもあれ悲しくもあれ、涙は流れなかった。すべてが一連の作業だった。楽しくはない作業だったけれど、それでも作業だった。歯磨きによく似た作業だった。

 先月、彼が亡くなったという連絡があった。葬式の案内も一緒だった。身内以外の葬式に誘われるのはそれが初めてだった。しかし僕は彼の葬式には行かなかった。彼は自分の葬式を見て何を思うのだろうか。満足するだろうか。その日、僕は一日中エクセルのファイルを眺めながら彼のことを考えていた。彼の葬式はいくらのお金がかかったのだろうか?

十万人の兵士

 マニラで目にした乞食のことを思い出した。それはある個人というよりは、一つの家族だった。乞食一家は交差点の三角地帯にブルーシートを敷いて住処としていた。ビジュアルさえ適当に整えてしまえばシュールレアリスティックなピクニックに見えなくもなさそうだった。

 乞食の長男(正確には、仮にそれが本当の家族であり、かつ典型的な家族と同じ構成をしていた場合、長男の位置に当たる人物)が僕の方に向かってなにか言葉を発していた。彼が何を言っていたのか、どういうわけか僕は本当に思い出せない。それがタガログ語だったのか英語だったのかすら思い出せない。思い出せないわけだからやはり理解できないタガログ語だろうとも思うけれど、思い出せないものは仕方がない。しばらく前に食べたアイスクリームの味を思い出せないのと同じである。そのせいで僕はアイスクリームが嫌いなのにもかかわらず数ヶ月に一回はアイスクリームを食べてしまう。

 とにかく彼は僕になにかを語りかけ、そして僕はことごとく無視した。彼は粘り強かった。マニラにおいてはアジア人の顔は目立った。格好のカモだと思われたのかもしれない。僕は彼と目さえ――一刹那ですら――合わせなかったのに、彼はとめどなく攻撃を続けた。

 彼の声がやっと止んでからしばらく経ち、僕は気になって三角地帯の方を振り返ってみた。遠くから見るとミニチュアの公園でピクニックをしている感がさらに増した。彼はまだこちらを見ているだろうか。僕はそのことが気になっていたのだ。いずれにせよ、僕は彼にお金を渡さなかったし、彼は僕に危害を加えはしなかったのだから、そんなことを気にしてもしょうがないと言えばそれまでである。しかし僕はその時なぜか立ち尽くしたまま彼の方を凝視した。僕には彼の目が見えた。でも僕は彼の目を見たことすらない。

 僕はその時フィリピンでの一人旅の途中で、イントラムロスを目指して歩いていた。イントラムロスはスペイン人によって建設され、第二次世界大戦アメリカ軍と日本軍の戦いの舞台となった。城壁に登ってみると、その強大さが身に染みて感じられた。絶対に破られはしないという安心感と誇りが、日本人である自分の中に芽生えた。

 その日の夜、僕はカジノに行った。オカダ、という名前の高級カジノリゾートだった。どうして名前がオカダなのか、日本と何かしらの関係があるのか、そこらへんの事情については何もわかなかった。僕はオカダで噴水ショーを眺め、サーカスのパフォーマンスを観て、ルーレットとテキサス・ホールデムで2万円ずつ負けた。それで両替していたフィリピン・ペソが底をついたので、僕はうんざりした気持ちで引き上げなければならなかった。

 ホテルへと戻るグラブ・タクシーの中で、僕は乞食の長男のことを思い出していた。僕は語りかけてくる乞食の長男のことを考え、マニラの戦いで死んた十万人の兵士のことを考え、オカダ・ホテルに宿泊している富豪たちのことを考えた。乞食の長男は何で僕に語りかけてきたのか、十万人の兵士は何のために命を落としたのか、富豪たちは財産と引き換えに何を差し出したのか、これらのことについて僕は考え続けた。どうして乞食の長男は富豪ではなく、富豪は命を捧げる兵士ではなく、僕は乞食の長男ではないのだろう。乞食を無視してイントラムロスを訪れてカジノで大敗した僕は何者なんだろう。考えれば考えるほど、僕はなんだかひどく混乱してしまって、とうとう一つも解決できないまま目的地に着いてしまった。

林檎と蝶

 ブログを書くことにした。理由は二つある。一つには、悪い文章、あるいは(より自負を持って)良くない文章を書くことに慣れるためである。

 文章を書こうとすればどうしてもいきなり良い文章を書こうとしてしまう。これが人間一般に当てはまることなのかわからないが、少なくとも僕の癖である。そしてそれは悪い癖である、と僕は考えている。「初めから完璧な文章を書くことはできない。初めから完璧な文章を書こうとすることは、文章を書くことをやめてしまうことと同義である」というのを好きな小説家が言っていた。ブログなら、気楽な気持ちで書けるのではないかという気がする。「習作」というブログ名にしたのもそういった経緯からである。

 そしてもう一つの理由だが、こちらはやや込み入っていて、うまく説明できるかいまいち自信がない。しかしうまくない説明でも書くべきだ、というのがこのブログのそもそもの趣旨だったわけだから、やはり説明しなければならないだろう。

 先日、かつて中学校の同級生だった女子のブログを見つけた。家族の日常の記録、というのがそのおおよその内容だった。彼女はすでに結婚していて、子どもがいた。もちろん、これがただの元同級生の何の変哲もないブログだったとしたら、僕は今こうしてこの文章を書いてはいない。

 蝶の絵文字と林檎の絵文字が記事の最後にあった。最初に目を通した記事にそれらがあったせいで、僕は二十以上の記事を漁って、そのすべてで共通して使われていることを確認した。「おやすみなさい」や「ありがとうございました」のような挨拶に続く場合もあれば、絵文字二つからなる段落が最後に置かれている場合もあった。

 蝶と林檎の絵文字、それは僕と彼女が互いを愛していた時に使ったものである。

 中学生の恋愛が愛と呼べるかどうかについては、僕はかなり懐疑派に属するが、僕と彼女は間違いなく愛し合っていたのだと思う。しかしその頃、僕と彼女はクラスにおいていじめられる立場にあった。そしてその立場にあるということは、自由に恋愛できないことを含意していた。ここらへんの事情については本題ではないので詳しくは話さないが、中学校ではそういった非人道的なヒエラルキーがあることを理解してほしい。とにかく、僕と彼女は白昼堂々と付き合うわけにはいかなかったのである。

 当時はまだスマートフォンも普及しておらず、連絡手段といえばメールだった。それで、僕と彼女は頻繁にメールを交わした。これまた上記の事情から、メールは上位ヒエラルキーに属する者にほとんど監視されていて、色恋沙汰が判明しようものなら晒し者にされるのがオチであった。少年と少女が二つの未熟な頭脳をフルにはたらかせて編み出した解決法は、秘密の合言葉である。彼女は文末に林檎の絵文字、僕は文末に蝶の絵文字をつけることで、愛情表現の代わりとしていた。林檎と蝶というチョイスは、彼女と僕の名前に由来していた。少なくとも僕らの中学校ではメールの末尾に絵文字をつけることは一種の流行だったので、怪しまれる危険性はほとんどなかった。

 その絵文字を、十年近く経った今、彼女が使っている。そのことが僕を混乱させる。彼女は何かの意図を持っていいるかもしれないし、すべては僕の考えすぎかもしれない。

 彼女と別れたのは高校進学のために僕が引っ越しをする際だった。「元気でいてね」と彼女は泣いていた。「林檎と蝶はいつまでも二人だけの合言葉」という約束を、僕たちは何度も繰り返した。

 彼女と最後に会ったのは成人式の式典のことだった。「元気?」と尋ねられて、そうだと答えると、「そう、よかった」と彼女は笑っていた。林檎と蝶のことをそれとなく仄めかしたら、「なにそれ」というあっけない返事だけがあって、話はそれ以上膨らまなかった。

 何もかも気のせいだと割り切ることができれば、あるいは思い切って彼女に連絡することができれば、僕はやはり今この文章を書いてはいないだろう。その中間拓として、ビーフ・オア・チキンで迷いに迷った結果フィッシュを選ぶように、僕ははてなブログのアカウントを開設するという選択をした。

 というようなわけがあって、僕はブログを書くことにした。