極北

 具体的個物を見て抽象的概念を考える。これだけを書かれるとなんだか小難しそうな感じがして、つい「漢字が多いな」くらいの感想に落ち着いていまいそうになる。しかし誰だって多かれ少なかれやっていることではないか。路側帯に落ちているプラスチックカップを見れば、ちょっとだけ不快な気持ちになって環境保全について思いを馳せる。何もおかしくないことだ。たった一人の、まったく無名の人間の死が、何億もの生きている人間に人権という摩訶不思議な概念について考えさせたこともある。でもよくよく考えてみると、目の前のプラスチックカップ――その瞬間にその空間に存在したというだけのプラスチックカップ――から、いったいどうして環境保全という倫理的テーゼまで導かれるのだろうか。人権というほとんど形而上学的な道具を両手に持っていれば、彼は死神の鎌から逃れられたのだろうか。

 実に幸運なことに、僕は二種の極北たる例と知り合いだった。花見に行こうと言いながらラベンダーガーデンへ赴く男と、石ころを蹴りながら還元主義的科学論について語りだす女である。あるいは二人のうちのどちらかを「極南」と呼ぶべきなのかもしれないけれど、彼と彼女のどちらが北でどちらが南なのか僕には決めかねたし、北と南をきちんと整理しようとすれば八卦二十四山まで修正を迫られてしまう。僕にはとてもできない。

 彼と彼女と出会ったとき、二人はそれぞれに恋人がいた。ありふれた大学生の恋愛だった。他人の恋愛事情に首を突っ込むのは褒められたことではないけれど、少なくとも二人は僕のことを頼っていた。何かと相談を持ちかけられたが、すでに紹介した二人の特徴から容易に想像できるように、僕は露ほども有用な助言はできなかった。「君が間違っているのだ」と言ってしまえば単純かもしれないけれど、問題が問題たる所以はここにあった。彼も、彼女も、少しも間違っていないのだ。少なくとも僕には間違いを指摘することはできなかった。愛をダンボール箱に閉じ込めておくこともできないし、ロマンスがセックスの同義語だとも思えない。

  程なくして、彼と彼女はおおよそ同じ時期に恋人と別れた。幼きグレタ・トゥーンベリが雄弁を振るい、僕の人生史上最も暑い夏が終わろうとしていた。どちらかが恋人に別れを告げ、どちらかが恋人に別れを告げられた。どっちがどっちだかは忘れた。そんなのはどっちでもよかったのだ。双方の知らせを聞いたとき、奇妙で邪悪な思いつきが僕の頭の中に浮かんでいた。いや、きっとそれはずっと前からそこに潜伏していたのだろう。そして僕はその思いつきを実行に移してしまった。もし僕が熱心なキリスト教徒だったとしたら、司教の耳にたこができるくらい繰り返し告解に通っていたことだろう。

 僕は恋のクピードーとして、極北と極南を貫く一本の矢を放ったのだ。

   *

 結局、二人は結婚した。その知らせを最初に耳にしたときに、僕がどれだけ驚いたものか、きっと想像に容易い。僕はどうしても理解できなくて、彼と彼女のそれぞれに(もちろん相手に聞こえない場面を選んで)尋ねてみた。

 「彼は物事の本質的本質をよく見抜いているわ」と彼女は言い、「彼女は生粋な現実主義者だ」と彼は言った。「もちろん、これは彼女の言葉を借りればということだけれど」と彼は付け加えた。

 二人の台詞についてよく考えているうちに、僕は昔に受けた数学の授業のことを思い出した。背の低い数学教師は次のようなことを熱心に語った。

 「数直線の上では、右に行けば行くほど大きくなり、左に行けば行くほど小さくなるな。どんどん、どんどん、離れていっちまう。そして、プラス無限大とマイナス無限大だな。この二つをだな、よく聞けよ、――同じ無限大だと考えるとどうなるだろう? 無限大同士がつながって、そう、一つの輪っかになっちまうんだな!」

 世の中には理解できないことがたくさんある。むしろ、ほとんど至るところのことがらは理解できないのかもしれない。僕は当時から数学がちんぷんかんぷんだったし、今も二人の関係を振り返ってはため息をつくことしかできない。

 理解できないことは仕方がない。これは僕が大人になる過程で身につけた武器の一つだった。人権よりも遥かに実用的な武器だ。僕はプラス無限大とマイナス無限大がつながる世界を想像しながら、極北の彼と極南の彼女、あるいは極南の彼と極北の彼女のために友人代表スピーチの原稿を書いた。