小説の書き方を忘れてしまった。 #2

 「そうだなあ」
 彼は苦笑いしながら言葉を探していた。それが数秒か数十秒か、具体的な時間の長さはわからないけれどとにかくかなりの時間を要した。しかし僕は彼を急かそうとは思わなかった。何かができないということを、それができる人に説明するのは、ひどく困難なことなのだ。
 「〇〇くんは自転車に乗れるよね?」
 「はい」
 「でもいつか自転車に乗れなかった時期だってあるわけだよね?」
 「生まれつき自転車に乗れる人なんていません」
 「そう、生まれつき自転車に乗れる人なんていない。でもみんな自転車の乗り方を覚える。そして、自転車の乗り方を覚えたけど、それを忘れてしまうことだってありうる。そうでしょう? 僕の状況はそれとよく似ているんだ。それってうまく想像できる?」
 僕は自転車の乗り方を忘れることについて想像してみたが、うまくできなかった。途方に向けた視界に映る車内広告に意識を持っていかれた。脱毛の広告と転職の広告と育毛の広告と脱毛の広告だった。僕は世界中の人々がひげの剃り方を忘れてしまうことを想像しようと努力してみた。そしてもちろんうまくはできなかった。
 「なんか語っちゃった」
 彼は照れ隠しをするように体に引き寄せていたギターケースを左右に小さく揺らした。
 「すみません。あまりうまく理解できなくて」
 「いやいや、『わかる』なんて言われるほうがびっくりだよ」
 「でもすごくおもしろいというか、」僕は慎重に言葉を選んだ。「興味深いなあと思います。せっかくなので見せてくれませんか? もちろん先輩が嫌じゃなければ、ですが」
 「見せるって? ごはんを食べるところを?」
 「はい。自転車に乗るところを、です」
 どうしてそんなことを言ったのか自分でもよくわからない。好奇心、とくくられてしまえばそれまでなのかもしれない。しかしそのとき僕は、なんとしてでもそれを見届けなければならないという原始的な衝動にとらわれていたように思う。険しい渓流を遡上するサケが、ただひたすらに上を目指すように。