小説の書き方を忘れてしまった。 #1

 小説の書き方を忘れてしまったので、小説を書くことができなくなってしまった。先月の月末に、大小含め三つの文学賞の締切があり、僕はそれに向けて執筆と推敲の日々を送った。そして締切が音もなく通り去ると、僕は頭をガツンと殴られたように小説の書き方をまるごと忘れてしまった。比喩ではなく、自転車の乗り方がわからない人が自転車に乗れないように、僕は小説を書くことができなくなってしまったのだ。

 そういえば、以前ごはんの食べ方を忘れてしまった、という人と知り合ったことがある。そのとき僕は大学生で、彼は僕の所属するギターサークルのOBだった。

 「なあ、ちょっと変なこと聞いてもいい?」
 OBOGを含めた練習会を終えて、二人は帰りの電車に揺られていた。他のみんなはアフターの飲み会に行っているはずだった。おそらく断ったのは僕たち二人だけだ。彼には彼の事情があり、僕には僕の事情――大人数の飲み会が嫌いだというだけのことだが――があった。
 僕が小さくうなずくと、彼は嬉しそうに続けた。
 「ごはんの食べ方を忘れたことってある?」
 「ごはんの食べ方、ですか?」
 「あ、ごめん、別に特に難しい意味はないけど」
 僕がよほど怪訝そうな表情をしたのか、彼は慌てて満面の笑みで弁解した。
 「ないと思います。たぶん」
 「そうだよねえ」
 「どうしたんですか?」
 「いやあ」とつぶやきながら彼はきまりが悪そうに向かいの車窓に目をそらした。電車は地下かトンネルの中を走っているらしく、彼の目線の先は真っ暗闇だった。
 「あんまり信じてもらえるかわからないけど、実は、なんていうか、ごはんの食べ方を忘れちゃったんだよね」
 ごはんの食べ方を忘れた。わからない単語や文法があるわけでもないのに、その文章の意味を飲み込むのに時間がかかった。ごはんの食べ方を忘れた。彼の言葉を何度も反芻していると、故意に黙っているのだと勘違いされたらしく、彼はひとりでに続けた。
 「って言っても意味分かんないよね。だからアフターも断っちゃった。楽しそうだったのになあ。◯◯くんも直帰だから、てっきり俺と同じでごはんの食べ方忘れちゃったのかな、なんて思って」
 そう言いながら彼は声を出して笑った。僕も相槌代わりに笑って見せた。
 「まあそんなことありえるわけないよねえ。ごめんね急に変な話して、忘れて」
 ごはんの食べ方さえ忘れた彼にはわからないかもしれないが、そんなことを言われたとしても、忘れられるはずがなかった。もっともここで無理やり話題を切り替えたところで、乗り換えまでの約二十分を、背中を虫に這い回られるような居心地の悪さのもとでやり過ごさなければならなかった。そこで僕は興味津々を装って、なんとか時間を稼ごうと思った。
 「ごはんの食べ方を忘れるって、どんな感じなんですか?」