小説の書き方を忘れてしまった。 #2

 「そうだなあ」
 彼は苦笑いしながら言葉を探していた。それが数秒か数十秒か、具体的な時間の長さはわからないけれどとにかくかなりの時間を要した。しかし僕は彼を急かそうとは思わなかった。何かができないということを、それができる人に説明するのは、ひどく困難なことなのだ。
 「〇〇くんは自転車に乗れるよね?」
 「はい」
 「でもいつか自転車に乗れなかった時期だってあるわけだよね?」
 「生まれつき自転車に乗れる人なんていません」
 「そう、生まれつき自転車に乗れる人なんていない。でもみんな自転車の乗り方を覚える。そして、自転車の乗り方を覚えたけど、それを忘れてしまうことだってありうる。そうでしょう? 僕の状況はそれとよく似ているんだ。それってうまく想像できる?」
 僕は自転車の乗り方を忘れることについて想像してみたが、うまくできなかった。途方に向けた視界に映る車内広告に意識を持っていかれた。脱毛の広告と転職の広告と育毛の広告と脱毛の広告だった。僕は世界中の人々がひげの剃り方を忘れてしまうことを想像しようと努力してみた。そしてもちろんうまくはできなかった。
 「なんか語っちゃった」
 彼は照れ隠しをするように体に引き寄せていたギターケースを左右に小さく揺らした。
 「すみません。あまりうまく理解できなくて」
 「いやいや、『わかる』なんて言われるほうがびっくりだよ」
 「でもすごくおもしろいというか、」僕は慎重に言葉を選んだ。「興味深いなあと思います。せっかくなので見せてくれませんか? もちろん先輩が嫌じゃなければ、ですが」
 「見せるって? ごはんを食べるところを?」
 「はい。自転車に乗るところを、です」
 どうしてそんなことを言ったのか自分でもよくわからない。好奇心、とくくられてしまえばそれまでなのかもしれない。しかしそのとき僕は、なんとしてでもそれを見届けなければならないという原始的な衝動にとらわれていたように思う。険しい渓流を遡上するサケが、ただひたすらに上を目指すように。

小説の書き方を忘れてしまった。 #1

 小説の書き方を忘れてしまったので、小説を書くことができなくなってしまった。先月の月末に、大小含め三つの文学賞の締切があり、僕はそれに向けて執筆と推敲の日々を送った。そして締切が音もなく通り去ると、僕は頭をガツンと殴られたように小説の書き方をまるごと忘れてしまった。比喩ではなく、自転車の乗り方がわからない人が自転車に乗れないように、僕は小説を書くことができなくなってしまったのだ。

 そういえば、以前ごはんの食べ方を忘れてしまった、という人と知り合ったことがある。そのとき僕は大学生で、彼は僕の所属するギターサークルのOBだった。

 「なあ、ちょっと変なこと聞いてもいい?」
 OBOGを含めた練習会を終えて、二人は帰りの電車に揺られていた。他のみんなはアフターの飲み会に行っているはずだった。おそらく断ったのは僕たち二人だけだ。彼には彼の事情があり、僕には僕の事情――大人数の飲み会が嫌いだというだけのことだが――があった。
 僕が小さくうなずくと、彼は嬉しそうに続けた。
 「ごはんの食べ方を忘れたことってある?」
 「ごはんの食べ方、ですか?」
 「あ、ごめん、別に特に難しい意味はないけど」
 僕がよほど怪訝そうな表情をしたのか、彼は慌てて満面の笑みで弁解した。
 「ないと思います。たぶん」
 「そうだよねえ」
 「どうしたんですか?」
 「いやあ」とつぶやきながら彼はきまりが悪そうに向かいの車窓に目をそらした。電車は地下かトンネルの中を走っているらしく、彼の目線の先は真っ暗闇だった。
 「あんまり信じてもらえるかわからないけど、実は、なんていうか、ごはんの食べ方を忘れちゃったんだよね」
 ごはんの食べ方を忘れた。わからない単語や文法があるわけでもないのに、その文章の意味を飲み込むのに時間がかかった。ごはんの食べ方を忘れた。彼の言葉を何度も反芻していると、故意に黙っているのだと勘違いされたらしく、彼はひとりでに続けた。
 「って言っても意味分かんないよね。だからアフターも断っちゃった。楽しそうだったのになあ。◯◯くんも直帰だから、てっきり俺と同じでごはんの食べ方忘れちゃったのかな、なんて思って」
 そう言いながら彼は声を出して笑った。僕も相槌代わりに笑って見せた。
 「まあそんなことありえるわけないよねえ。ごめんね急に変な話して、忘れて」
 ごはんの食べ方さえ忘れた彼にはわからないかもしれないが、そんなことを言われたとしても、忘れられるはずがなかった。もっともここで無理やり話題を切り替えたところで、乗り換えまでの約二十分を、背中を虫に這い回られるような居心地の悪さのもとでやり過ごさなければならなかった。そこで僕は興味津々を装って、なんとか時間を稼ごうと思った。
 「ごはんの食べ方を忘れるって、どんな感じなんですか?」

極北

 具体的個物を見て抽象的概念を考える。これだけを書かれるとなんだか小難しそうな感じがして、つい「漢字が多いな」くらいの感想に落ち着いていまいそうになる。しかし誰だって多かれ少なかれやっていることではないか。路側帯に落ちているプラスチックカップを見れば、ちょっとだけ不快な気持ちになって環境保全について思いを馳せる。何もおかしくないことだ。たった一人の、まったく無名の人間の死が、何億もの生きている人間に人権という摩訶不思議な概念について考えさせたこともある。でもよくよく考えてみると、目の前のプラスチックカップ――その瞬間にその空間に存在したというだけのプラスチックカップ――から、いったいどうして環境保全という倫理的テーゼまで導かれるのだろうか。人権というほとんど形而上学的な道具を両手に持っていれば、彼は死神の鎌から逃れられたのだろうか。

 実に幸運なことに、僕は二種の極北たる例と知り合いだった。花見に行こうと言いながらラベンダーガーデンへ赴く男と、石ころを蹴りながら還元主義的科学論について語りだす女である。あるいは二人のうちのどちらかを「極南」と呼ぶべきなのかもしれないけれど、彼と彼女のどちらが北でどちらが南なのか僕には決めかねたし、北と南をきちんと整理しようとすれば八卦二十四山まで修正を迫られてしまう。僕にはとてもできない。

 彼と彼女と出会ったとき、二人はそれぞれに恋人がいた。ありふれた大学生の恋愛だった。他人の恋愛事情に首を突っ込むのは褒められたことではないけれど、少なくとも二人は僕のことを頼っていた。何かと相談を持ちかけられたが、すでに紹介した二人の特徴から容易に想像できるように、僕は露ほども有用な助言はできなかった。「君が間違っているのだ」と言ってしまえば単純かもしれないけれど、問題が問題たる所以はここにあった。彼も、彼女も、少しも間違っていないのだ。少なくとも僕には間違いを指摘することはできなかった。愛をダンボール箱に閉じ込めておくこともできないし、ロマンスがセックスの同義語だとも思えない。

  程なくして、彼と彼女はおおよそ同じ時期に恋人と別れた。幼きグレタ・トゥーンベリが雄弁を振るい、僕の人生史上最も暑い夏が終わろうとしていた。どちらかが恋人に別れを告げ、どちらかが恋人に別れを告げられた。どっちがどっちだかは忘れた。そんなのはどっちでもよかったのだ。双方の知らせを聞いたとき、奇妙で邪悪な思いつきが僕の頭の中に浮かんでいた。いや、きっとそれはずっと前からそこに潜伏していたのだろう。そして僕はその思いつきを実行に移してしまった。もし僕が熱心なキリスト教徒だったとしたら、司教の耳にたこができるくらい繰り返し告解に通っていたことだろう。

 僕は恋のクピードーとして、極北と極南を貫く一本の矢を放ったのだ。

   *

 結局、二人は結婚した。その知らせを最初に耳にしたときに、僕がどれだけ驚いたものか、きっと想像に容易い。僕はどうしても理解できなくて、彼と彼女のそれぞれに(もちろん相手に聞こえない場面を選んで)尋ねてみた。

 「彼は物事の本質的本質をよく見抜いているわ」と彼女は言い、「彼女は生粋な現実主義者だ」と彼は言った。「もちろん、これは彼女の言葉を借りればということだけれど」と彼は付け加えた。

 二人の台詞についてよく考えているうちに、僕は昔に受けた数学の授業のことを思い出した。背の低い数学教師は次のようなことを熱心に語った。

 「数直線の上では、右に行けば行くほど大きくなり、左に行けば行くほど小さくなるな。どんどん、どんどん、離れていっちまう。そして、プラス無限大とマイナス無限大だな。この二つをだな、よく聞けよ、――同じ無限大だと考えるとどうなるだろう? 無限大同士がつながって、そう、一つの輪っかになっちまうんだな!」

 世の中には理解できないことがたくさんある。むしろ、ほとんど至るところのことがらは理解できないのかもしれない。僕は当時から数学がちんぷんかんぷんだったし、今も二人の関係を振り返ってはため息をつくことしかできない。

 理解できないことは仕方がない。これは僕が大人になる過程で身につけた武器の一つだった。人権よりも遥かに実用的な武器だ。僕はプラス無限大とマイナス無限大がつながる世界を想像しながら、極北の彼と極南の彼女、あるいは極南の彼と極北の彼女のために友人代表スピーチの原稿を書いた。

夕焼け空

 死んだ人間と散歩をするというのはひどく奇妙なものだ。その相手がまさに自分の手で殺された人となればなおさらである。

 五年前、僕はこの散歩道を彼女と歩き、磯辺で彼女を殺し、帰路をひとりで歩いた。そして今、僕は同じ道を再び彼女と歩いている。

 彼女は沈黙を貫いた。一言も発さず、目さえ合わせなかった。そうと来ればお手上げである。僕から彼女に声をかけることはできない。これは物理的制約や社会的規範よりも高い次元における不可能性である。喩えるなら、クマバチが空を飛ぶような不可能性である。

 彼女は何を考えているのだろうか。僕には見当もつかなかった。彼女はあの日と同じ茜色のワンピースをつけていた。

 「あなたは私を愛していた?」
 僕と彼女は斜陽に照らされる波打ち際に並んで座っていた。
 「おそらく」
 「おそらく?」
 「つまり、人間の記憶っていうのは――」
 「そういうことじゃないの。わかるでしょ? ちゃんと私の目を見て」
 僕は彼女の目を見ようとしたけれど、そこには彼女の目ではなく僕自身が佇んでいた。理由はわからない。しかし僕が彼女の目だと想定していた場所には、確かに僕自身が存在していた。それで、僕は僕自身を見つめながら、彼女の声を聴くことになった。
 「あの日、あなたは私を愛していた?」

 永遠のような時間が流れて、どうやら僕は頷いたようだった。ようだった、と僕が言うのは、永遠の時間をかけて頷くということが果たしてどのような類のものなのか僕にはいまいち理解できないからだ。でもそれは確かに永遠に感じられたし、僕は確かに頷いた。

 「じゃあ証明して?」と彼女は言った。目の前に広がる太平洋に身を投げることが真っ先に浮かんだけれど、彼女の方が一枚上手だった。
 「死ねって言ってるんじゃないよ」

 僕は困ってしまった。愛を証明すること、それも、自分が殺した人間に対する過去の愛を証明することが、いったいどのようにして可能になるのだろうか。

 僕は長い間考えていた。彼女はいつまでも待った。そして僕の結論はこうだった。

 「夕焼けの空。黄橙色から青紫色のグラデーション。二つの色は犬猿の仲とも言える補色同士なのに、夕焼け空だと不思議なことに、互いに溶け合って不可能的なマリアージュを形づくる」
 彼女は空を仰ぎつつ真剣に耳を傾けていた。
 「あれ以来、夕焼けを見るたびに思い出すんだ」

 「そう」
 彼女は夕焼け空から目を離さず、長い時間をかけて僕の言葉を吟味した。
 水平線に沈みゆく太陽の残光が、刹那、翡翠のような緑色に燦めいた。

 彼女はおもむろに立ち上がり、近くにあった岩を持ち上げた。バスケットボールよりも少しばかり大きい岩だった。僕もつられて立ち上がり、彼女と向かい合った。

 「愛しているよ。今も、昔も」

 彼女は返事しなかった。僕は口づけをして、彼女は両手を振り下ろした。

数学者のようにカップ焼きそばを作る方法

  1. まず, あなたが現在利用可能なカップ焼きそば全体の集合が空ではないこと, あなたが以下の指示によって要求される操作を十分に行えること, 以下の指示によって要求される道具と材料が十分に利用可能であること, を仮定する.
  2. 仮定より, 利用可能なカップ焼きそばをひとつ取ってくることができる. それをカップ焼きそば0とおく.
  3. カップ焼きそば0カップ焼きそばなので, その中にかやくの袋とソースの袋が一意に存在する. これらをカップ焼きそば0から取り出し, それぞれかやくの袋0, ソースの袋0とおく.
  4. かやくの袋0の中身をカップ焼きそば0に入れ, 十分に熱くかつ十分に多い水をカップ焼きそば0に注ぐ.
  5. 3分後, カップ焼きそば0のほとんど至るところの水を捨て, ソースの袋0の中身を入れ, 十分に混ぜる. これを改めてカップ焼きそば1とおく.
  6. 以上の手順は有限回であり, 有限時間内に終了する. このようにして構成されたカップ焼きそば1が実際に完成された(completed)カップ焼きそばであることは容易に確かめられる.

郵便飛行機

 外に出ると、そこには黄金の景色が広がっていた。黄色い菜の花が地面を埋め尽くす勢いで無造作に並んでいる。かすかな土の匂いが漂っている。濃縮された生命の活力が花粉のように広がって空間を包んでいる。開けた青空には郵便飛行機が飛び交っている。手紙をしたためた人がどこかにいて、手紙をこれから受け取る人がどこかにいる。そして手紙を届ける人が頭上にいる。あちこちから人々の話し声と笑い声が聞こえる。正真正銘、いきいきとした人間の声である。

 色、匂い、音。何もかもが鮮明で、五感の許容量を遥かに超えていた。

 夢、ではないらしい。そうか、ここには戦争がないんだ。

ピロートーク

 彼女が僕に何を求めていたのか。それを知ることは今となってはとても難しい。

 「もしも、もっと近くにいたら、考えてくれてた?」と彼女は尋ねた。
 「さあ」と僕は答えた。

 それは実にひどい答えだったと思う。でもそのとき僕は本当にわからなかったのだ。僕は反実仮想が苦手だった。もしも彼女と僕が隣り合うアパートに住んでいたら、僕と彼女は付き合っていたかもしれないしそうしなかったかもしれないけれど、もしも彼女と僕が隣り合うアパートに住んでいたら、新しい総理大臣は河野太郎だったかもしれないし、パンダのしっぽは黒かったかもしれない。そういったことがいったい何の意味を持つというのか?

 その夜、僕は彼女と寝た。彼女はそれが初めてだった。ことを終えると彼女はおもむろに身支度を始めた。

 「終電ならもうないよ」
 「いいのよ」
 「そう、気をつけて」

 彼女は黙って荷物をまとめていた。僕は黙って彼女を眺めていた。

 部屋を出る前に、彼女が部屋代と言って数枚の紙幣を机に置いた。断るよりも先に彼女が言った。

 「高校のとき、あなたのことが好きだったのよ」

 それだけ言い残して彼女は部屋を出ていった。それが彼女と僕のピロートークだった。彼女との最初で最後のピロートークだった。